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最高裁判所大法廷 昭和23年(れ)512号 判決 1949年3月23日

主文

本件上告を棄却する。

理由

辯護人土井一夫の再上告趣意書及び同補充書は末尾に添附した別紙書面記載のとおりである。

按ずるに憲法第三二條は、何人も裁判所において裁判を受ける權利を奪はれないと規定しているが、同條の趣旨は凡て国民は憲法又は法律に定められた裁判所においてのみ裁判を受ける權利を有し、裁判所以外の機關によって裁判をされることはないことを保障したものであって、訴訟法で定める管轄權を有する具體的裁判所において裁判を受ける權利を保障したものではない。從って假りに所論の如く、本件公判請求書は昭和二二年五月二日に福知山區裁判所において受理したものではなくて、同年同月五日京都地方裁判所福知山支部が受理したものであるとしても、その違法はただ管轄違の裁判所のなした第二審判決を原審が是認したという刑事訴訟法上の違背があるということに歸着するだけであって、そのために原判決を目して憲法違反のものであるとはいい得ない。從って原判決は憲法に違反することを主張する論旨は、再上告適法の理由とはならない。

よって刑訴法施行法第二條舊刑訴法第四四六條により主文のとおり判決する。

以上は裁判官長谷川太一郎同沢田竹治郎同栗山茂を除く裁判官一致の意見である。

裁判官長谷川太一郎同沢田竹治郎同栗山茂の反對意見は次のとおりである。

裁判官長谷川太一郎の反對意見は次のとおりである。

憲法第三二條は何人も裁判所において裁判を受ける權利を奪はれないと規定しているが、同條の裁判所は憲法又は法律の定めにより權限を有する裁判所のことであり、裁判を受ける權利というのは、積極消極の両面があって、積極の面は私權の保護を求めるため裁判所に對し訴を提起する權利即ち訴權であり、消極の面は裁判所の裁判によるのでなければ刑罰を科せられないという意味である。多數説に從えば、同條は国民は憲法又は法律により定められた裁判所においてのみ裁判を受ける權利を有し、裁判所以外の機關によって裁判されることはないことを保障したものであって、訴訟法で定める管轄權を有する具體的裁判所において裁判を受ける權利を保障したものでないというのであるが、もし多數説どうりのものであるとすれば、法律上權限のある裁判所に對し訴を提起することのできる場合、又は權限ある裁判所に對し、上訴をなすことのできる場合等において、故なく訴又は上訴を拒否されたに拘わらず訴訟法の規定によっては救濟の道がない場合において憲法上の保護を求めることができないとすれば、国民は所謂泣き寢入りの止むなきに至るわけであるが、それでは人權尊重について周到な注意を拂った憲法の精神を沒却するものといわなければならないし、文理解釋上から見ても、裁判所の裁判といえば正式の裁判所即ち憲法又は法律の定めにより權限の有る裁判所の裁判を意味するものと解すべきは當然である。古來裁判所の組織と權限は之れを重要視し幾多變遷のある法制史上の沿革に徴するも、同條は單に裁判所以外の機關によって裁判されることのないことを保障したに止まらず、權限ある裁判所の裁判を受ける權利を奪われないことを保障したものといわなければならない。そして憲法第七六條第一項はすべて司法權は最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に屬すると規定しているので、その反面解釋により、国民は裁判所以外の機關によっては裁判されることはないといい得るから、憲法第三二條の趣旨が多數説のとおりであるとすれば、同條は結局無用の蛇足を加えた形となるわけであるが、左様なものとは考えられない。從って權限ある裁判所の裁判を受ける權利を侵害した第二審判決を是認した原判決は憲法第三二條に違反することを主張する本件再上告は適法であるといわなければならない。記録に徴するに、本件公判請求書の日附は昭和二二年五月二日であるが、右公判請求書に對しては昭和二二年五月五日附の福知山區裁判所受附印を押印したる後右受附印中の五日の部分を二日と訂正した(受附印中の5の上に2を書いて訂正した)ものであることは所論のとおりである。よって當裁判所は舊刑訴法第四三五條により右受附印の日附訂正の事由を調査するため裁判官庄野理一を受命判事に指名し、同裁判官は京都地方裁判所福知山支部より昭和二二年五月當時の第一審公判始末簿を同裁判所檢事局よりは同年同月當時の記録遞付簿を取寄せ調査したるところ、右各帳簿の内本件に關係ある部分の日附欄の記載は昭和二二年五月五日と記載した後五日を二日と訂正したことが判明したので、當裁判所大法廷裁判長塚崎直義は京都地方裁判所に前記日附訂正事由の調査を囑託し、同裁判所判事増田幸次郎は昭和二三年七月二二日京都地方裁判所福知山支部において右公判請求書の受附事務に關係した堀強及び植村美喜子並びに前記公判請求書を前記檢事局より前記裁判所に遞付の事務に關係した和田且、伊東粂市の四名を證人として訊問した結果、右和田、伊東の両名は前記公判請求書を福知山區裁判所が受附けたのは公判請求書記載の日附と同日即ち昭和二二年五月二日である旨を陳述したが信用できない。そして堀強は前記公判請求書を受附けたのは自分であり受附けた日は同年同月五日に相違なき旨を陳述し、植村美喜子は右受附印の日附の内、五日を二日と訂正したのは自分であると陳述しているので、右堀、植村両名の陳述により本件公判請求書は論旨の如く同年同月五日京都地方裁判所福知山支部において受理したものと認めなければならないから、第二審手續は大阪高等裁判所でなすべきものであるにかかわらず、原審においては第二審裁判所として管轄權のない京都地方裁判所のなした第二審判決を是認し、被告人をして大阪高等裁判所において第二審手續により裁判を受くべき途をふさいだのは、憲法第三二條に違反することを主張する論旨は理由がある。從って原判決はこれを破毀し大阪高等裁判所に差戻すべきものである。

裁判官沢田竹治郎の反對意見は次のとおりである。

最高裁判所が違憲法令審査について終審裁判所であることの他は、どういう事件がどういう裁判所で裁判されるかということは、日本国憲法(以下單に憲法と略稱する)には定めていないで、すべて法律の定めに一任していることはたしかである。だからといって、法律で、ある事件をある裁判所の裁判すべき事件と定めているのに拘わらず、他の裁判所でその事件を裁判をするということがあっても、その裁判は裁判所の管轄を定めた法律に違反するものであるのにとどまって毛頭憲法に違反するものではないと斷言することは早計であると信ずる。凡そ法律が管轄裁判所と定めている裁判所でない裁判所で裁判をするという場合には、法律の定める管轄裁判所が地方裁判所又は合議裁判所であるのに、実際に裁判した裁判所は簡易裁判所又は單獨裁判所である場合も含まれる。この場合は、同一種類の事件でありながら、甲は地方裁判所又は合議裁判所で裁判を受けるのに、乙は簡易裁判所又は單獨裁判所で裁判を受ける。即ち甲と乙とは、いわれなくして法の前で平等の取扱をうけないことの結果を生ずる。これは明らかに憲法第一四條の精神に正面から衝突して許容されないところである。又これが刑事の裁判で有罪を言渡したという場合であると、法律の定める手續によらなくては何人も刑罰を科せられないという憲法第三一條の精神にも違反するものであることも亦いうまでもない。管轄裁判所として高等裁判所又は最高裁判所と法律に定めている事件を実際は地方裁判所又は高等裁判所で裁判をした場合にも亦同様に憲法第一四條同第三一條の精神に違背して容認されないところであることは多言を要しない。されば憲法第三二條で保障している裁判を受ける權利とは、單に憲法や法律で設けられた裁判所においてのみ裁判を受ける權利、その裁判所以外の機關によって裁判をされないことの權利であるにとどまるから、たとい、法律で地方裁判所又は合議裁判所で裁判すると定めている事件を簡易裁判所又は單獨裁判所で裁判をしたり、同じく高等裁判所又は最高裁判所で裁判すると定めている事件を地方裁判所又は高等裁判所で裁判をしたとしても、それは單に法律に違反するものであるに止まり憲法には毛頭違反しないというのは、憲法第一四條や第三二條の規定が、裁判を受くる權利に關する限り空文に歸せしめられることを看過し、容認するものといわなくてはならぬ。しかのみならず、何人も法律で定められた組織と權限を有する裁判所の裁判を受ける權利を享有することを保障することは現代国家の憲法が軌を一にしているところである。我が憲法のこの第三二條の規定も、現代国家の例外なく認めている憲法上のこの原則とその立法趣旨を一にしておる。即ち、何人も法の前には同等であるという現代国家の普遍的な憲法上の原則を実現するのに、何よりも先づ保障しなければならぬ基本人權として、その裁判所で裁判を受けるの權利を奪われないと宣言したのであることは、我が憲法の制定の由來、經過とその憲法規定、就中基本的人權の尊重、擁護に關する周到、緻密の規定の設けられていることからも想像に難くはない。それなのにこの規定の保障している權利は、單に憲法や法律で設けられた裁判所で裁判を受ける權利及びその裁判所以外の機關によって裁判されない權利にとどまるというのでは、この規定は実の處憲法第七六條第一項で保障していることを、今一度言葉を替えて保障したのに過ぎない、極めて存在價値の乏しい規定だというのと毫も異るところがない。それのみでない、この規定を無條件に憲法や法律で設けられた裁判所で裁判を受ける權利であるとか、その裁判所以外の機關で裁判をされない權利であるとかを保障した規定だと解すると、この規定は憲法第七六條第二項の規定、即ち裁判所でない行政機關でも、終審でない裁判ならこれを禁止する趣旨でないと解釋する餘地のある規定と一部矛盾するのでないかという疑問が生ずる。これに反して、この規定は法律である裁判所の管轄と定めた事件はその裁判所で裁判を受ける權利及びその裁判所以外の裁判所(裁判所でない行政機關などは言うまでもない)では裁判されない權利を保障しているのだと解するときは、この規定と憲法第七六條第二項との間に生ずる前に述べたような矛盾についての疑問は消滅してしまうのである。これ等のことがらを綜合して考えると、憲法第三二條の裁判所の裁判を受ける權利を奪われないという規定の意義は、單に憲法や法律で設けられた裁判所で裁判を受ける權利及びその裁判所以外の機關で裁判をされないことの權利を奪われないというのではなく、法律である裁判所の管轄に屬すると定められた事件はその管轄裁判所で裁判を受ける權利及びその管轄裁判所以外の裁判所では裁判をされない權利を奪われないという義に解するのが相當である。されば管轄裁判所と法律で定められた裁判所以外の裁判所で裁判をすることは單に訴訟法に違背するにとどまらず憲法第三二條にも違反するものである。ところが記録に徴するに本件公判請求書の日附は昭和二二年五月二日であるが右公判請求書に對しては昭和二二年五月五日附の福知山區裁判所受附印を押印したる後右受附印中の五日の部分を二日と訂正した(受附印中の5の字の上に2を書いて訂正した)ものであることは所論のとおりである。よって當裁判所は舊刑訴法第四三五條により右受附印の日附訂正の事由を調査するため裁判官庄野理一を受命判事に指名し、同裁判官は京都地方裁判所福知山支部より昭和二二年五月當時の第一審公判始末簿を同裁判所檢事局よりは同年同月當時の記録遞付簿を取寄せ調査したるところ、各帳簿の内本件に關係ある部分の日附欄の記載は昭和二二年五月五日と記載した後五日を二日と訂正したことが判明したので、當裁判所大法廷裁判長塚崎直義は京都地方裁判所に前記日附訂正事由の調査を囑託し、同裁判所判事増田幸次郎は昭和二三年七月二二日京都地方裁判所福知山支部において右公判請求書の受附事務に關係した堀強及び植村美喜子並びに前記公判請求書と前記檢事局より前記裁判所に遞付の事務に關與した和田且、伊東粂市の四名を證人として訊問した結果、右和田、伊東の両名は前記公判請求書を福知山區裁判所が受附けたのは公判請求書記載の日附と同日即ち昭和二二年五月二日である旨を陳述したが、堀強は前記公判請求書を受附けたのは自分であり受附けた日は同年同月五日に相違なき旨を陳述し、植村美喜子は右受附印の日附の内五日を二日と訂正したのは自分であると陳述したのであるが、右堀、植村両名の陳述により本件公判請求書は論旨の如く同年同月五日京都地方裁判所福知山支部において受理したものと認められる。從って所論の如く第二審裁判所は京都地方裁判所合議體ではなくて大阪高等裁判所であるといわなければならないから、本件再上告は理由がある。從って原判決は破毀を免かれないものである。

裁判官栗山茂の反對意見は次のとおりである。

憲法は裁判所の管轄について保障していない。管轄の問題は専ら訴訟法の範疇に屬するものであるという多數意見には不幸にして賛同できない。およそ人の生命を奪い、その自由を制限し又はその他の刑罰を科しうるのには、国の法律を成規の手續で適用して初めてなしうるものであることは、法の支配を鉄則とする民主主義国民の長きに亘る經驗の教ゆるところである(憲法第三一條、第九七條)。法律を成規の手續で、適用することは、成規の裁判手續によることであり、且裁判所が成規の手續による以上は、裁判所が他の国家機關と同様にその權限を超えないこと即ち各裁判所がそれぞれ事物、人、土地について權限を有することが前提でなくてはならぬ。具體的案件を審判する權限がない裁判所の裁判で刑罰を科したのでは、適法な裁判ではないから、かかる裁判所の裁判は憲法第三一條にいわゆる「法律の定める手續」に該當しないものであり、そして同條の「法律に定める手續」に該當しないとすれば、憲法第三二條の保障している裁判上の救濟ともならないことは明である。(尤も茲に誤解してはならないことは、憲法第三一條の「法律の定める手續」は訴訟手續に關する法律の意味ではない。從って技術的な手續法上の事項が凡て同條の保障するところでないことである。)

元來憲法第三二條は、マグナカルタ第四〇節と同じに、司法を錢で賣ったり、裁判を勝手に拒否して裁判所による正當な裁判上の救済の途を閉すことをしてはならないという保障であるが、かような保障をする以上は、管轄權がある裁判所による裁判でなければ裁判上の救濟とはならないと同様に、管轄權があるのに管轄權がないとして裁判をしないとすれば、裁判を拒否するものであって、憲法第三二條に適合しない結果となるのである。日本国憲法と同一系統である成文憲法が宣明している人權の保障いわゆる權利典章中ことに裁判に關する條項は、その沿革上それだけで適用するに十分であって、即ちself-executingであって、法律の規定をまって初めて実行性があるというような、なまやさしい人權の保障ではないのである。

或は憲法第七六條同第八一條で憲法は裁判所の管轄權は法律をして規定せしめることにしてあるから、憲法それ自體では裁判所の管轄權までも保障していないという見方があるかもしれない。しかしこれらの條項から見ても法律を以て下級裁判所が設置されることが要請されているのであるから、法律が下級裁判所を設置する以上は、それぞれその管轄をも定めなければならないものである。そして、この事を憲法第三一條第三二條が管轄權ある裁判所の裁判を保障することとは矛盾するものではないのである。又反對に憲法としては單に司法裁判所の裁判を保障しているに止るとして、訴訟關係人が裁判所の管轄權を無視して、自己の勝手にどの裁判所へでも救濟を求めうるというような保障は憲法上存在しないのである。

以上の理由によって、本件は再上告の理由として適法である。そして、所論のように本件公判請求書が昭和二二年五月二日に福地山區裁判所において受理したものではなく、同年同月五日京都地方裁判所福知山支部が受理したものであるとすれば、第二審裁判所は大阪高等裁判所となるものであるから、京都地方裁判所合議體が第二審裁判所として審判したのは違法であり、そして右の違法は憲法第三一條及び第三二條の保障に反するものであるから、右違法は適法なりと判斷した原判決も亦憲法の條規に適合しないものであって破毀を免れないものである。

(裁判長裁判官 塚崎直義 裁判官 長谷川太一郎 裁判官 沢田竹治郎 裁判官 霜山精一 裁判官 井上 登 裁判官 栗山 茂 裁判官 真野 毅 裁判官 小谷勝重 裁判官 島 保 裁判官 齋藤悠輔 裁判官 藤田八郎 裁判官 岩松三郎 裁判官 河村又介)

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